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[report] 宮崎駿の作品におけるもう一人の自分との出会い

pencilk 2006. 2. 22. 07:14
내가 제일 좋아했던, 미야자키 하야오 작품 분석 수업 레포트.

 宮崎駿監督の作品の中に出る数多い人物たちは、一人一人それぞれ違う個性を持っているが、宮崎監督がその人物たちを通して語ろうとする物語りには、各々の作品がネットワークとして繋がる共通の要素がある。その中の一つが「もう一人の自分の発見」である。宮崎監督は、作品の中で多様な形式で、人間が「もう一人の自分」を発見していく過程、人間が持っている二面性を表現している。
 先ず一つ目は、回想という手法によって浮かびあがるもう一人の自分である。回想シーンでは、時間が再編成され、時・空間が一瞬崩れることによって、今までは見えなかったものが見えてくる。主人公は、回想をもって自分の心の底へ降りていって、子供の頃の自分と出会うことが出来る。「風の谷のナウシカ」でナウシカは、腐海の底に落ちた時、回想を通して小さい頃の自分を見る。オウムの幼生を奪おうとする大人たちの手から、小さいナウシカは必死で幼生を守ろうとするが、結局奪われてしまう。“お願い!殺さないで!”と泣きながら叫ぶ小さい頃の自分との出会いによって、ナウシカは小さい頃から虫と自然を愛し、生命を大切にしていた自分の心の底をのぞき込むことが出来た。そして自分を見もしないお母さんの姿で、小さい頃から暖かいお母さんの体温を感じたりことなく、母の存在が欠損されているナウシカの心の奥の寂しさが分かる。小さい頃の回想によって、普段は最も見えにくいもの「自分」のことが、少しずつ見えはじめるのだ。
 回想はまた封印してきた自分を気付かせてくれる。「紅の豚」のポルコは自分が自分に封印してエロスを抑えている。そして自分の顔を豚の顔にしたまま生きている。しかし、回想に回想が重ねられたこの作品の構造の中で、ポルコの封印していた自分はどんどん解けていく。特に水と空の回想シーンはポルコのエロス的な問題、ポルコが封印して抑えているエロスのことをよく表現している、
 二つ目は、見たくなかった自分の一面との体面である。ある極めた状況に置かれた瞬間、今まで眠っていた「もう一人の自分」が飛び出すことによって、新しい自分の発見が出来る。そして自分も知らなかった自分の姿に不安を感じる。
 「風の谷のナウシカ」のナウシカは、誰よりも生命を大切にし、村の人達の硬い手を“とてもやさしい手だ”と言うなど、優しくて賢い存在である。しかし、そんな彼女が、クシャナ達によって殺されたお父さんを見て理性を失い、またたく間にその場にいた兵士たちをほとんど殺してしまう。その瞬間には、いつもナウシカの肩から離れることのなかったテトさえ、ナウシカの怒りや興奮を感じて逃げてしまう。後でユパが自分の手でナウシカの刀を止めることによってやっとナウシカが落ち着いた時、テトはナウシカから離れた所で恐怖で震えている。
 しかし、その時震えているのはテトだけではない。その時誰よりも一番震えているのはまさにナウシカ自身である。自分が何をしているのかも意識出来ず、憤怒に荒れ狂っていたナウシカが、ユパによってやっと、人を虫のように殺している自分を気付いた瞬間、自分も知らなかったもう一人の自分の姿に衝撃を受けたのである。そして「自分の中にそういう残酷なもう一人の自分が眠っていたのだ」と思って、怒りに我を忘れた時に自分が何をするか解らないという不安を感じたのである。
 こういうふうに、見たくない自分、忘れたくて封印してきた自分を発見する構造は、アンドレ・ジッドの「狭き門」にも出てくる。主人公のアリサは狭き門、つまり神様の道に入るためには現世の幸福を犠牲するしかないという当時の理念のため、禁欲的な生活をしながら自分を愛するジェロームを受け止めない。アリサがジェロームを受け止めない理由は狭き門に入るためだけではない。実は、アリサ自身も、他の男のためお父さんを捨ててしまった紊乱なお母さんと同じようになってしまうのではないかと、心の底から怖がっていたからである。そして実はお母さんと似ている自分の性欲をずっと抑えてきたのである。ジェロームが帰った後一人になったアリサが、ランプの光に照らされている自分の裸足をじっと見ているシーンで、足が表しているのはアリサが封印していた欲望である。足というものは体の中で頭と一番遠く離れている、つまり知性と一番遠く離れているただの「肉体」なだけである。特に当時足というのは、人に絶対見せないものであった。そんな足をじっと眺めていたアリサは、自分の若い肉体の部分、誰にも見せたことのない自分の欲望、つまりもう一人の自分を眺めていたのである。実はアリサも寂しい。ジェロームが自分を抱いて欲しい。しかしジェロームが足をもう一歩さえ踏み出したら、自分が自分をコントロール出来なくなるかもしれない、お母さんみたいになってしまうかもしれないという不安を感じているのだ。そしてお父さんが、「さっき客間にはいってきて、長椅子に横になっているお前を見たとき、わたしには、一瞬、お母さんを見ているような気がした」と言った時、その言葉はアリサをもっと恐怖に追い込む。結局アリサは最後までそういうもう一人の自分を封印したまま、ジェロームの愛を受け止めないまま死んでしまう。ギリシャ神話「エロスとプシケー」の話でも、プシケーが自分自身も知らなかった自分のエロスを闇の中でランプで照らし出したことによって、エロスから捨てられてしまう。
 しかし、宮崎監督の作品の中での「もう一人の自分の発見」とは、こういう文学や神話の話とは少し違う。宮崎監督の作品の主人公たちは、封印されていた、自分も知らなかったもう一人の自分と出会って、不安を感じることによって、さらに成長していく。「風の谷のナウシカ」でも、ナウシカが我を忘れて人を殺してしまった事件があってからこそ、自分の心の底に眠っていたもう一人の自分を発見してからこそ、ナウシカは何事があっても、何よりも生命を一番大切にし、命のあるものは絶対殺さない人間になる。気付きたくなかった自分の残酷な一面を直視することによって成長していくのである。
 自分の嫌な面を直視し、それも自分の一部だということを認めて成長していく主人公がいる一方、極めた状況で自分も知らなかった能力を発揮し、新しい自分を発見して成長していく主人公もいる。その代表的な人物は「千と千尋の神隠し」の千尋である。千尋は、最初は泣き虫で、優柔不断で、自分に自信のない女の子であった。人間の住めない異空間にまぎられてしまった千尋は、最初はすぐ湯婆婆に食べられてしまいそうな、一人では何もできなさそうな弱い女の子だった。ボイラー焚きの釜爺に始めて会ったときには、ちゃんとあいさつさえ出来ないくらい、自分に自信がなく、何をやっていても優柔不断で怒られるばっかりであった。最初はそういうふうに、一人では何もできなくてハクに助けてもらってばっかりであった。しかし、時間が経てば経つほど千尋は変っていく。そして最終的には、千尋がハクだけではなく、自分のお母さんとお父さんも自分の力で助けてあげるようになる。
 ナウシカは見たくなかった自分の嫌な一面を発見した一方、千尋は自分から自分も知らなかった強さがあることを発見していく。怖がり屋で優柔不断だった千尋が、どんどん勇敢で自信のある人間に変っていく過程で、千尋は何もできなかった昔の自分とはまた違う新しい自分と出会う。そして、そのもう一人の自分との出会いは、千尋を成長させる。最後に、湯婆婆に同じ顔をしている豚たちの中でお父さんとお母さんを見つけさせられた時、昔の優柔不断な千尋だったら選べられなかっただろうが、変った千尋は「自分のお父さんとお母さんなら自分の目に見えないはずがない」という、自分に対した自信を持てるようになってるので、“ここにはお父さんもお母さんもいない”と言えたのである。そしてハクの手を放してもう一度新しいご両親を会いにいく最後のシーンは、千尋にとってもう一つのスタートでる。
 そして四つ目は、別の人物を通したもう一人の自分の発見である。「魔女の宅急便」のキキは、魔女になるために自分が暮らす新しい町を探しに旅立つ。キキは最初から小さくても自分が作った箒で飛ぼうとするが、お母さんの心配と町のお祖母ちゃんの新しい町の暮らしに慣れたら自分の箒を作ればいいじゃないかという勧誘で、結局お母さんの箒で飛ぶことにする。今までキキはお母さんの真似をしながら、何も考えずに魔法を使ってきたのであるが、そうしているうちにどんどん自分が出てきて、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。自分だけの魔法ではなく誰かの真似をしていたキキは、結局魔法が弱くなってジジと会話も出来なくなり、空を飛ぶことも出来なくなる。
しかし、ウルスラと会って対話をしてから、キキは初めて魔法とは何か真剣に考え、悩み、そして成長していく。実際にキキとウルスラの声を演じた声優は同じ人である。同じ声の二人は、二つの精神の重なりであり、つまりキキとウルスラは別の人物ではなく、実は同一人物であるのだ。ウルスラはもう一人のキキであり、キキは自分自身との対話によって成長していったのである。自立してちゃんとした魔女になるためには、もう誰かの真似ばかりしていてはならない。自分だけの独自的なものが発見できないと、それ以上の成長はできないのだ。結局キキはお母さんの箒ではなく、町のあるおじさんのブラシで再び飛べるようになる。お母さんの真似ではなく、キキだけにできる魔法を少しは分かるようになったのである。その成長には、何よりもウルスラとの対話、自分自身との対話が必要であった。
 こういうふうに別の二人の人物を同じ声優に演じさせて、主人公のもう一人の自分としての人物を登場させたのは、「もののけ姫」のサンとカヤ、そして「千と千尋の神隠し」の湯婆婆と銭婆もそうだ。湯婆婆は怖い魔女を、銭婆は優しい魔女を代表しているが、あの二人は実は一人の人物であり、銭婆は湯婆婆のもう一人の自分、湯婆婆の中に存在する優しい面を表している。
 こういうふうに宮崎監督は「もう一人の自分探し」の過程の中で、人間の二面性、特に女性の二面性に興味を持っていた。昔からいろいろな童話や神話などでよく登場してきたのが、母と娘の関係の中での女性、特に母なるものの二面性である。娘を産んで育てた母として娘を愛する一方、その娘に嫉妬し、自分の娘を殺そうとする母なるものの物語りは、グリム童話のいろいろな作品によく出てくる。
 「いばら姫」の妃様は自分の娘が可愛い一方で、“この子は私の不倫の証拠だ。この子さえいなければ、何も知らずに済んだのに”と思い、知らず知らずに、“この子は死んでしまえ”と願ってしまう。勿論自分の娘であるためにすぐ取り消そうとするが、一回願ったら取り消しはできない。
 「白雪姫」も娘を殺そうとする母親という設定は「いばら姫」と同じである。白雪姫の美しさに嫉妬し、殺そうとするお妃様は魔法使いの人である。そして魔法使いのお母さんの子供である白雪姫には魔法の血が流れている。つまり魔女の娘である白雪姫も魔女であるのだ。特別に魔法を使うわけではないが、自分の中に存在する魔法性によって、自分を殺そうとするお母さんを、むしろ娘の方が殺すことで終る物語が多い。
 人間なら誰でも持っているこの両面性は、宮崎監督の作品の中でもよく出てくる。とても優しくて生命を大切にするナウシカの中には、人を虫のように殺してしまう残酷さもある。一人では何もできなさそうな泣き虫で優柔不断な女の子の千尋の中には、愛する人のためには誰よりも強くなれる強さがある。普通の女の子に見える千尋だが、実は千尋の中には魔女性があり、湯婆婆と千尋の対決は古い魔女と新しい魔女の対決の形勢になる。こういうふうに、普通の人に見えるけど中に魔女性を持っているキャラクターには「ハウルの動く城」のソピもある。
自分の中にはいくつもの自分が存在する。誰もが自分の中に多面性を持っているのである。その中には自分も気付かないままずっと隠れていた自分もある。そういう新しい自分を発見するためには、「今までとは違う状況」というのが必要である。宮崎監督の作品の中の空間は、ある意味その「新しい状況」である。
 宮崎監督の作品には、トンネルを抜け出すと異空間が広がる構造がよく出てくる。その異空間は時空の超越した空間であり、そこで主人公はもう一人の自分との出会うようになる。それは、今までと全然違う、人間が住んではいけないような世界にまぎられた時は、普段は出ることのなかった、心の底に眠っていたもう一人の自分が出てくるからである。そして、暗いトンネルを抜け出したら広がる「異空間」というもの自体が、まさに今まで気付いてなかった「新しい自分」みたいな空間でもある。
 宮崎監督の作品によく出る上下の空間は、空を飛んだり空から落ちたりすることによって、普段地面から眺めたときとはまた違う光景を見せてくれる。空から見下ろした町の光景は、普段人間の目で見ることはほとんどできない。その俯瞰で見下ろした町の光景は、普通の視線で見る町とまた違う町である。いつも見ていた町の景色も、空から見下ろすと違う町のように見える。普段は見えなかったものが、視線を変えることによって見えてくるのである。
 そして、部分しか見えなかったものが全体的に見える。宮崎監督の作品に出る町は、何時間を歩いても飽きないような、迷路みたいな道が続く空間が多い。そして日本でもヨーロッパでもないでもない、世界のどこでもない空間が広がる。迷路はその中にいる時にはどこが出口か分からない複雑な道であるが、俯瞰のシーンで空から見下ろすと迷路ではない。困った時焦ったりするとどうしたら良いかさらに分からなくなったりするけれど、一歩下がって見ると解決の方法が案外よく眼に入ったりする。それは、普段は一番近い存在でありながらも最も見えなくい「自分」のことも、一歩下がってから見ると、普段は見逃していた新しい自分を見つける事とよく似ている。
 こういうふうに宮崎駿監督の作品たちは、いろいろな形で「もう一人の自分との出会い」について語っている。私の最も好きな宮崎監督の作品「千と千尋の神隠し」で、湯婆婆は人の名を奪って支配をする。しかし千尋は、湯婆婆によって名を奪われて千になってでも、自分の本当の名前を忘れずに居たため、元の世界への帰り道をちゃんと見つけられた。私にとってこの作品は、名前で代表される「自分」という話頭について、いろいろなことを考えさせた作品であった。現代社会の中で、「本当の自分」で生きている人間は果たしてどれくらい居るのだろうか。皆社会によって、人によって強要された自分として生きているのではないのだろうか。自分の中に存在するかもしれない、自分も知らなかった新しい自分を見つけずに、ただ社会が求める通りのつまらない人間として生きていくのは悲しい。もっといろいろな自分と出会いたい、そしてもっと自分らしく生きていきたいと心から思った。そういう意味で「千と千尋の神隠し」は私にとって非常に重要な意味の持つ作品であった。
 そして今回、青山学院大学で交換留学生として一年間勉強しながら、この授業で「千と千尋の神隠し」以外にもいろいろな宮崎監督の作品について教えてもらって、他の作品の中にも私が見つけられなかったいろいろな意味の「もう一人の自分との出会い」が存在することを分かってとても楽しかった。そしてもっと宮崎監督の作品が好きになった。これからも宮崎監督の多様な新しい作品を通して、もっといろいろな自分と出会いたい。